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環境と人類主権 |
『書評』第124号、2005年9月、関西大学生活協同組合編集委員会発行 |
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環境と人類主権
1現代の環境問題――地球はすでに限界を超えた
環境問題は人類の環境への適応という実践的課題と結びついている。人類の歴史は、環境への適応と環境危機への対応の歴史でもあった。旧石器時代には「食うものと食われるもの」の食物連鎖の法則によって一定の領域内で扶養可能な人間の数が制限されていたので、扶養能力の枯渇と飢えという環境危機は人びとの移住によって解決されるほかはなかった。食物の栽培や家畜の飼育といった環境改善によって領域の扶養能力が飛躍的に向上した新石器時代には、環境危機は一部の人びとの共同生産物に対する過度な権利から生じた。中世におけるペストの大流行(一三四六年からの二百年間)はヨーロッパ領域の扶養能力の限界を示すものであったが、この環境危機は人口の半減とそれにつづく農業革命(複数作物の同時栽培と飼育を連携させた農法)によって解決された。一八世紀後半に始まる産業革命は、人間の身体や労働力を過剰に搾取することから生じる一九世紀に典型的な環境危機、すなわち労働力の世代的維持や有能な新兵補充の危機を引き起こしたが、この環境危機に真っ先に対応したのは公衆衛生の専門家や医師であった。二〇世紀の環境危機は、経済活動の高度化とそれにともなう大量の廃棄物および資源の大量採掘が地球の限界(浄化・吸収の能力)を超えたことから生み出されたものである。一九七二年に経済成長が地球環境に及ぼす影響について警告したローマクラブの報告書『成長の限界』は、まだ人類は地球の扶養能力の限界内にあることを認めていたが、二〇年後の一九九二年に刊行されたメドウズ他著『限界を超えて』は経済活動と人口がすでに地球の扶養能力を超えたことを認め、環境破壊がもっと進むならば経済活動も衰退することを指摘した。さらに、二〇〇二年に刊行されたメドウズ他著『成長の限界 人類の選択』(以上三冊はいずれもダイヤモンド社刊)は、二〇〇〇年の時点で人類の経済活動が地球の扶養能力を二〇%も超えてしまったこと、世界の五〇カ国で一人当たりGDPが十年来減少し続けていることを指摘する。しかし、この地球の限界を超えた環境危機に対応する仕方はまだ見つかっていない。
『書評』第124号、2005年9月、関西大学生活協同組合編集委員会発行
2地球環境危機と人類主権
ドイツの作家、エンデは今日の環境危機を「第三次世界大戦としての環境戦争」と理解し、「第三次世界大戦はとっくに始まっている。それは、今生きている人間たちが自分たちの利益のために、これから生まれてくる世代の環境を破壊し汚染している戦争である」と述べている。だが、将来世代という環境破壊の最大の被害者は、まだ現在の世界に存在しない人びとであり、自分たちの権利を自分で主張できない「本質的に無力な存在」である。
本質的に無力な存在の中には、貧困と環境破壊との悪循環から抜け出すことができず飢えや不衛生や水不足に苦しむ多数のサハラ以南の人びとが含まれている。環境危機にとって根本的な問題の一つは、先進国の政治家や企業や消費者がこのような本質的に無力な犠牲者、今日の貧しい人びとや将来世代に対して責任を引き受けることを躊躇し、彼らの権利や利害を考慮に入れた行動を経済的にも政治的にもとることができないことである。
地球温暖化に関する国際的交渉の推移はこのような地球環境危機に特有な難しさを端的に示すものである。一九九二年にリオで開催された地球サミットで合意された地球温暖化防止条約は、温室効果ガスの具体的削減目標を定めた一九九七年の「京都議定書」によって実効性を獲得したかに見えたが、ブッシュを大統領に選んだ最大のCO2排出国アメリカが京都議定書から離脱したこともあって、議定書がようやく発効したのは二〇〇五年二月のことである。リピエッツによれば、地球温暖化をめぐって四つの立場がある(リピエッツ『レギュラシオンの社会理論』青木書店、第一〇章「責任の概念と国際関係、地球温暖化を例にとって」参照)。この四つの立場は、二つの軸から生じる。一つの軸は、温室効果に対して客観的責任を有する先進国(北)とそうではない発展途上国(南)との対立である。温暖化による環境破壊(異常気象、砂漠化、海面上昇など)の大部分は、先進国よりも発展途上国に集中すると予測されている。もう一つの軸は、地球温暖化防止のために「何かをするか」立場と「何もしない」立場との対立である。アメリカの立場は、温暖化に対して客観的な責任があるのに、テクノロジーと市場経済による解決の試み以外は何もしない立場であり、「化石燃料をベースとする自動車中心の使い捨て経済」の正当性を強く主張するものである。EUは客観的な責任を認めて何かをする立場であって、域内では再生可能なエネルギーの利用や廃棄物の削減によって循環型社会への移行をめざすとともに、国際的には温室効果ガスの大幅削減によって地球環境問題のリーダーシップをめざすものである。インドに代表される途上国は、客観的な責任は少ないのに何かをする立場である。マレーシアや中東の産油国に代表される途上国は温暖化の責任は先進国側にあることを強く主張し、自らは環境保全に対して何もしない立場である。地球上では現在、この四つの立場が対立している。そして、アメリカを初めとする各国の国家主権が環境保全のためのグローバルなルールの合意を阻害しているのである。
このような状況を打破し環境戦争を防ぐためには、国家主権を超えるような人類主権が構想され、制度化されねばならない。人類主権については、軍拡競争と戦争を阻止するために軍縮を推し進めるという文脈で、かつて小林直樹が次のように述べたことがある。「国家という閉じた支配の単位は・・・・グローバルな問題を解決するには、はなはだ不適当な組織になっている。互いに国益を追求することによって、人類を危地に陥れる禍害の原因となってきたのである。現代国家はこの意味では、たとえば一九世紀前半ごろヘーゲルが観念したような・・・・『自由の実現』たる『倫理的全体』などではなくて、人間を相互殺戮に駆りたてる大怪物である。諸国家がひたすら自らの国益を追って、相互の政策を用い、またそのために自国民を動員して、その結果として愚劣な軍事競争が、共滅の瀬戸際に人類を追いつめることになったのである。人類が生き伸びるために、まず最小限の要請として軍縮の全面化が絶対条件となるが、これには在来の主権国家の常識の変革を要する。国家が自立自存のために軍事力を持ち、自らの領土を自力で守り、その権益のために力を用いることは、近代国家成立いらいの国際的“常識”であった。この常識を改め、国家主権を人類(もしくは地球)主権の側に変えていかなくては全体の存立が危うくなる…」(『憲法第9条』岩波新書)。軍縮の全面化の場合と同じように、グローバルな経済競争による地球環境危機の場合にも、「国家主権を人類主権に変えていく」という提案は有意義である。
人類主権の提案が現実的なものになるには、少なくとも二つのことが必要である。一つは、あらゆる交渉に先立って、すべての人間とすべての世代が大気や水、土壌といった地球環境に関して平等な権利を有することが認められねばならない。地球温暖化についていえば、すべての人間の大気に対する平等な権利が正式に認められねばならない。京都議定書は、人類に不可欠な共同資産である大気に関する平等な権利に基づく「世界的妥協」に向けて一歩踏み出したものと評価することができる(リピエッツ前掲書参照)。もう一つは、環境政治のリーダーシップをとろうとする国(例えばEU諸国)は、「深層の責任」を引き受ける必要がある。深層の責任とは、自分たちの権利を自分で主張できない「本質的に無力な他者」としての将来の世代や飢えに苦しむ人びとに対する責任を意味する。この深層の責任という倫理は、地球サミットや温暖化防止条約締約国会議のような国際会議から、また環境破壊に対する市民や地域住民の抗議から生み出される価値である。深層の責任によってリーダーシップの責任が基礎づけられるのである。
3グローバル化と地域基盤型の経済発展
このような人類主権に基づく環境危機への対応はどのような経済発展モデルと整合的であろうか。一九九二年の地球サミットはそのような発展モデルの理念として「持続可能な発展」を提起した。持続可能な発展は「将来の世代がその欲求をみたす能力を損なうことなしに、現在の世代の欲求を満たすような節度ある発展」と定義される。しかし、この発展理念はそのままでは、環境政策の実行を可能にする具体的なコンセプトを欠いているので、地球環境危機の進行に有効に対応できないのである。これから述べていくように、持続可能な発展の理念は地域基盤の経済発展と結びついてはじめて有効になる。
グローバル化が進行する中で、今日、二つの発展モデルが対抗している。一つは、アメリカ発のニューエコノミーといわれるもので、金融のグローバル化(株主価値の最大化)―>消費者・投資家の選択の自由の拡大―>企業間・労働者間の競争激化(いわゆる消費者天国・生産者地獄の進行!)―>地域や社会関係資本(信頼関係など)の衰退というロジック優位の経済発展モデルであって、その帰結は環境危機のより一層の深刻化である。もう一つは、地域を基盤とする循環型経済(例えば、エネルギーの地産地消)といわれるもので、地域価値の発掘―>使い捨てから長持ちへ、最大化原理から満足原理へー>企業と消費者の協力関係―>地域と社会関係資本の充実というロジック優位の発展モデルであって、その帰結は地球環境の保全である。このような地域を基盤とする循環型経済の取り組みは決して夢物語ではなく、その実例が三橋規宏『環境再生と日本経済』(岩波新書) によって数多く紹介されている。また、「風の町」(年平均風速八メートル)という地域価値を活かして、風力発電(市民風車)によるエネルギー地産地消型の経済をめざす最北端の地域、稚内のプロジェクトは地域を基盤とする循環型経済の興味ぶかい試みである。
人類主権に基づく環境危機への対応として、二つの対抗的発展モデルのうちどちらが有効かは明らかである。地域を基盤とする循環型経済こそ人類主権に基づく環境危機と整合的である。しかし、この地域循環型経済がグローバル化の中で発展するためには、諸地域が国境を越えて連携することが必要である。EUでは、インターレグという資金援助プログラムと自治体間の越境協力によって、環境保全や雇用創出のための国境を越えた地域間経済協力が進展し、「諸地域から成るヨーロッパ」が形成されつつある。東アジアにおいても、EUの先駆的実験に学びながら、諸地域から成るアジアを志向する自治体間の連携の動きがある。地域循環型経済が発展する条件は、諸地域の国境を越えた協力の発展である。そのためには、グローバルに考えてローカルに行動するだけでは不十分である。人類主権に整合的な地域循環型経済が発展するためには、「ローカルに考えて(地域価値を発掘して)グローバルに行動する」ことが必要である。(わかもり・ふみたか)
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E-mailが変える留学環境 |
『QUEST』No.7、2000.5 |
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E-mailが変える留学環境
1998年の10月から99年の3月末まで、カナダに4ヶ月、フランスに約2ヶ月滞在した。長期にわたる海外滞在は、ほぼ15年前の30代最後の年(1984年)にまだ幼かった娘と息子を連れて夫婦でフランスで1年数ヶ月間生活して以来のことである。この最初の留学のときには、見るもの聞くものすべてが新鮮で、アグリエッタやリピエッツ、ボワイエに代表される「レギュラシオン学派」と出会い、「この学派には従来の資本主義認識を革新するだけのものがある」という確信をもって帰国することができた。
1995年の秋の帰国後、レギュラシオン学派の主要著作を翻訳することが毎日の日課となった。リピエッツの『奇跡と幻影』(井上泰夫氏と共訳、新評論)は最初に邦訳されたレギュラシオン学派の本になったし、アグリエッタ『資本主義のレギュラシオン理論』(山田鋭夫氏と共訳、大村書店)
―「世紀転換期の資本主義――危機の試練を受けるレギュラシオン理論」という長大の新論文を付け加えた増補新版を最近訳す機会をもった―
は、「レギュラシオン理論はどのようにマルクス理論を乗り越えようとするのか」を知るうえでの古典的文献となった。
以上から示唆されるように、最初の留学体験は基本的には「帰国後の研究を実り多いものにするにはどうしたらいいか」という態度によって規定されていたように思われる。
しかし、今回の2度目の外国滞在は、最初の留学体験とはずいぶん違っていた。E-mailのおかげで、日本とカナダ、日本とフランスの間の意志疎通や研究に必要な文献の入手は、日本にいるときとほとんど同じようにできた。レギュラシオニストの国家論研究者(ケベック大学モントリオール校)やポランニー研究者(コンコーディア大学)を訪ねたモントリオールでは、98年10月の上旬に科学研究費の申請書類の作文を、この月の下旬には『歴史としての資本主義』(松岡利道氏との共編、青木書店、1999年)の「あとがき」をE-mailで送った。モントリオールとトロントの凍りつくような冬を逃れて、週のうち5日は雨だが景観と海の幸に恵まれたバンクーバーでぬくぬくと過ごした1999年の1月には、友人である斉藤日出治氏の力作『国家を越える市民社会』(現代企画室)の書評や八木紀一郎氏を研究代表とする科研費研究「制度の政治経済学の体系化」の分担論文を執筆してE-mailで送った。
なぜ外国にいても原稿の執筆に追われるのかといえば、執筆の依頼や催促がE-mailでくるためだし、E-mailでどこからでもリアルタイムで原稿を日本に送れるという安心感があるためであろう。E-mailは「留学」という言葉に含まれている距離感や孤独感を希薄なものにしているかもしれない。
E-mailは、家族や友人とのリアルタイムの意志疎通や緊急の連絡にも役立った。ワイフは失敗談や新しい経験を、留守宅にいる息子や闘病中の夫を看病する自分の姉に毎日のように知らせていた。バンクーバーにいるわれわれに「老犬のペロが心筋梗塞で倒れる」というメイルが息子から入って以後は、ペロの病状記録が毎日届いた。われわれは滞在計画を大幅に変更し、2月中旬にパリでリピエッツに会ってから、ワイフだけ帰国することになった。
2月19日の約束の時間にCEPREMAP(数理経済計画予測センター)の研究室にリピエッツを訪ねた。ボワネ党首をジョスパン内閣の環境相に入れている緑の党の現況や、リピエッツの新著『政治的エコロジーとは何か』(緑風出版から近刊予定)などについて話し合った。彼は、青木書店から刊行されることになっている論文集『レギュラシオンの社会理論』についていくつか尋ねた。わたしは「『勇気ある選択』などは絶版になっていて、今、邦訳で読めるあなたの本は『緑の希望』(社会評論社)しかないので、青木書店からの本をなるべく早く出したいと思っている」と答えた。彼の研究室の壁には、まだ若さの残っている頃のわれわれの写真が、他の日本の研究者や世界各国の友人の写真といっしょに飾ってあった。「リピエッツにとっても、15年前のあの頃が人生と研究が開けていくようなときで、いちばんなつかしいのかもしれない」、とふと思った。
1999年6月の欧州議会選挙の準備で忙しいはずなのに、彼は時々連絡の入るケイタイを手に持って、われわれをセーヌ河畔に1990年代半ばに建設されたアラブ世界研究所の屋上につれて行ってくれた。ここからすぐ近くに見えるノートルダム寺院も、やや遠くに見えるサクレクール寺院やエッフェル塔もすばらしい眺めで、真下を流れるセーヌの川面を、春を包んだ風が吹き始めていた。
(『QUEST』No.7、2000.5)
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橋本治著『貧乏は正しい!』 |
小学館文庫、1998年、定価476円 |
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橋本治著 『貧乏は正しい!』
「若い男は本質的に貧乏である」というメッセージを伝えるこの本を今の「金持ち」の大学生は読んでくれるだろうか、タイトルを見ただけで拒否反応を起こさないだろうか、この本の読書案内をわざわざ書いても意味がないのではないか。そんな思いで読書案内の原稿執筆を締め切り間際まで延ばしているうちに、貧乏と若い男を結びつけるエピソードを耳にすることがたまたまあった。
そのエピソードは、著者の橋本と同じ団塊の世代の友人が話してくれたことである。近く娘が結婚することになった友人は、最初は結婚にはまだ若すぎると感じていたが、奥さんから「私は当時大学院生の、お金も研究業績も将来の保障もない、若さだけがとりえのあなたと結婚したのよ」と言われて、娘の結婚を認める気になったと言っていた。友人の奥さんの言葉に感心したり、自分が貧乏であることを自覚している若者がいまどれだけいるかな、と思ったりした。
著者はこの本の中で、「一番重要なことは《若い男は本質的に貧乏である》という事実を自分のものとして受けとめることである」と繰り返し語っている。「若い男=貧乏という自分の前提」を認めることによって、若者は「強くなれる」し、バブルがはじけた後の就職難とリストラの時代を生き抜くことができる。「若い男=貧乏」ということは、人類の歴史を貫く「真実」であり、「人類の未来を開くキー」なのである。
しかし、現在の若い男が「自分は貧乏である」と受けとめることはなかなか困難である。たくさんのブランド品やクルマや携帯電話などもっている現代の若者の多くは、「自分は貧乏じゃないぞ、ということを他人にアピールするための金、つまり、自分は貧乏だということをごまかすための広告費」を無理して使っているからである。若者のこのような広告費の使用を中止することによって初めて、若い男=貧乏という自分の前提を受けとめることができる。また、親の仕送りに頼って生活している大学生は貧乏ではないかもしれないが、そんな大学生は著者の定義によれば「若い男」とは呼びがたい。親から離れずに、自分は若い男だという顔などできないのである。若い男とは、「貧乏でも自分には力があるから平気だ」という強さをもった存在である。そうだとすれば、実際の若い男が中年または老人であり、実際の中高年が若い男である、ということもたまにはあることになる。
著者は「若い男は本質的に貧乏である」という真理を認めたがらない現代日本の大学生にたいし、いくつかの説得材料を用意している。著者によれば、性的に成熟しているのにパートナーをもっていない若い男は、オナニーに象徴されるような本質的な貧乏を刻印されている。著者のおもしろおかしな点は、このような本質的貧乏を経験した若者とそのような経験を経過することなく性的成熟と同時にパートナーに恵まれた若者とを比較検討し、「貧乏は正しい」という命題から、「切実じゃないくせに、テキトーに気持ちいいことに出会える機会」が若者の成長プロセスを奪ってしまうことを、真剣に議論していることである。
これだけ説得してもまだ「若い男は本質的に貧乏である」という真理が分からないかもしれない今日の大学生にたいし、著者は「貧乏とは、それ自体が利益を生み出すような財産を持っていないことである」と説明する。たとえ年収が2000万円ある人でも、それがすべて労働の代償として会社からもらう給与だったら、金持ちとはいえないのである。金持ちとは、株や土地のような、それ自体が利益を生み出すような財産を持っている人間である。しかし、金持ちにとって大事なのは、それ自体が利益を生み出すような財産を増やすことだから、金持ちは極端な浪費をしないだろう、と著者は言っている。ただ著者の金持ちの定義はやや常識的に過ぎるように思える。著者らしく、おもしろおかしく真実に触れるような金持ち論の展開を今後に期待したい。
ところで、この本にたいするいちばんの批判者は女性ではないだろうか。フェミニストのみならず、「男は会社、女は家庭」という性別分業論に疑問をもつ女性が、カッカするような文章が意識的に書かれている。例えば、「亭主」という「それ自体で利益を生み出すような財産」を持っている「専業主婦」は、カテゴリーとしては金持ちに属する(229ページ)という叙述がある。次のような文章もある。「この本の初めで、《若い男は本質的に貧乏だが、若い女は本質的に貧乏ではない》と言った。それはこういうことね――つまり、男が女のヒモになるのはそう簡単に出来ることじゃないが、女は当たり前のように専業主婦にはなれる」(229ページ)。現代の大学生、とりわけ女子学生はこの文章に怒るだろうか。著者は反撥を百も承知して、なぜこのような挑発的な文章を書いたのだろうか。著者は、若い女が「自分は貧乏である」ことを受けとめる「若い男」になることを期待しているのではないだろうか。
著者は70年前後の「大学闘争」のころに東大に在籍していて、「止めてくれるな、おっかさん、背中の銀杏が泣いている」という駒場祭のポスターで一躍注目され、その後作家活動に入った。代表作に、『桃尻娘』や『人工島戦記』などがある。それゆえ、本書は、年頃の娘や息子を持つようになった30年前の全共闘世代が、バイブルや「資本論」のような共通の必読書がなくなった今日の時代の若者に贈るメッセージである。いまの大学生はこの本をどのように読むだろうか。この本にたいする関大生の感想をぜひ聞きたいと思っている。
(『書評』第115号、1999.12)
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就職活動の功罪 |
『葦』No.104、1996.8 |
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就職活動の功罪
就職戦線が厳しくなればなるほど、学生諸君が「内定」にたどり着くまでの期間は長くなる傾向にある。96年度は4月上旬から企業説明会や会社訪問が始まったので、4回生が講義やゼミナールに出席するのが困難になっている。彼らが「大学生」に復帰するのは9月の頃である。これでは、大学生が十分な専門知識と思考力を身につける時間が足りないのである。毎年、このような悲観的気分に襲われる。
しかし、よく考えてみると、短くても半年、企業に資料請求をするときから計算すると約1年にも及ぶ就職活動を通じて、学生諸君は意外に成長するのである。志望理由や自己分析の文章、依頼やお礼の手紙を書かねばならず、彼らはここで初めて「書く」という修行をする。そして長所と短所を分析することによって、自分のそれまでの大学生活で何が不足していたかに気付くはずである。自分の意見がないこと、本を読んでいないこと、議論が下手なこと、芯はしっかりしているのにコミュニケーションが苦手なこと、などが痛切に自覚されるようだ。驚くべきことだが、若い彼らはこの自分の足りない点を短期間になんとかするのである。
秋になると、就職が内定したゼミ生は再び「大学生」になる。書くこと、読むこと、プリゼンテーションなどにおいて、彼らが成長しているのを確認する。約3分の2の学生は、就職活動の経験をプラス方向に活かしている。しかし、就職活動で得た自身が慢心につながる学生もいる。卒業までの半年間で専門知識の不足を必死で補う必要があるのに、「大学生」に復帰しないまま卒業する学生も少なくない。就職活動の功罪について考える昨今である。
(『葦』No.104、1996.8)
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レギュラシオン理論 |
『関大通信』No.233、1995.2.1 |
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研究室訪問――レギュラシオン理論
「大学の先生って、一体、何をやってるんやろか」。こんな疑問を持ったことはないだろうか。小学校、中学校、高等学校に先生はいたが、大学の先生は、どうも違うらしい。そこで、高校まではなくて大学にしかないと思われる、あの研究棟の中、先生の個人研究室を訪ねてみた。まず、時代をずーと遡って古代エジプト史の研究室(人文科学系)、そして今度は時代の最先端でもあるロボット工学の研究室(自然科学系)、さらに今日特に話題になっているレギュラシオン理論の研究室(社会科学系)を訪問し、広報委員の責任で記事を編集した。さて、大学の先生は研究室でどんなことをしているのだろうか。(山本)
――最近のご研究テーマは何でしょうか?
レギュラシオン理論です。レギュラシオンというのはフランス語で、システムが矛盾や緊張を含むにもかかわらず、一時的に安定する事態を表現する用語です。システムの安定化と安定化の暫定性を意味するレギュラシオンは、政府による規制を意味する英語のレギュレーションと同じではありません。
――ではレギュラシオン理論とはどのような経済理論でしょうか?
レギュラシオン理論は、1973年第一次オイルショックの頃に、「経済危機」を解明する理論としてフランスのアグリエッタによって提唱された新しい学説です。従来の経済理論はこの経済危機の解明に失敗しました。経済危機の原因を「政府の失敗」に求める新古典派経済学も、需要サイドの原因を強調するケインズ経済学も、また経済危機を資本主義の「体制的危機」に直結させるマルクス経済学も、この構造的危機を説得的に説明できません。レギュラシオン理論によれば、現在まで長びく長期不況は、フォーディズム(大量生産-大量消費型経済)の危機です。フォーディズムは、画一的製品の大量生産方式および、消費を生産にリンクさせるさまざまな国民経済的制度によって欧米や日本で高度成長を実現しました。労使関係や企業間関係の変容、経済のグローバル化や環境危機の深刻化などは、フォーディズムの危機および危機打破の試みと密接に結びついています。
――レギュラシオン理論は克服すべきどのような難問を持っていますか?
いくつかあります。抗争や緊張関係にある諸アクターが、いかに「協力の制度化」に達するかの究明が、現在のレギュラシオン学派にとって最大の難問です。フォーディズムの危機を打破し、市場経済や企業活動を方向づけるような新しい制度およびゲームのルールの形成を解明する問題です。また、「世界の成長のセンター」になった東アジアの経済動態をレギュラシオンで解明することは、日本の研究者に期待されている課題です。
――レギュラシオン理論から21世紀の資本主義をどのように展望されますか?
21世紀の資本主義には、おそらく20世紀におけるフォーディズムのような支配的モデルはありません。世界経済は4ないし5の発展モデルから階層的に構成され、しかも発展モデル間の競争の激化が予想されます。それゆえ21世紀の最初の争点は、カール・ポラニー的に言えば、市場経済を新しい制度や規範に埋め込むのか、それとも国境を越えて広がる市場経済を制度的枠組みから離脱させるかにあります。レギュラシオン理論の立場は前者です。後者の場合、地球環境問題や南北問題が深刻化するはずです。
――最後に受験生や学部学生に何かメッセージをいただけませんか?
21世紀が刻々と近づく今、経済や社会や歴史を見る「共通の眼鏡」であった既成概念のすべてを捨て去ることが許されています。「脱=20世紀パラダイム」という思考における冒険に若い人にも加わってほしいと思います。
(『関大通信』No.233、1995.2.1)
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「破壊的な観察」の人 ―― 平田清明先生を悼む―― |
『月刊フォーラム』1995.6 |
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「破壊的な観察」の人
――平田清明先生を悼む――
3月1日の未明、平田先生はお好きだった桜の開花を待つこともなく、学長をされていた鹿児島の地で本当に突然息を引き取られた。まだ72歳である。東京の自宅の書斎の机の上には、「ケネーとスミス」に関する未完の草稿が残されていたそうである。また昨年の夏、先生は追分の別荘にこもって秋の経済学史学会全国大会でケネーについて報告する準備をされていたが、「昨晩は発見したよ」と朝起きる度に奥様に言われたそうである。先生は最後まで、書斎では思索に生きる「発見」の人であり、組織人としてはラディカルな制度的改革を手掛ける実践の人だった。
平田先生は学問的世界では、ケネー「経済表」の謎を解明した不朽の名著『経済科学の創造』(岩波書店、1965年)や、故佐藤金三郎氏によって「マルクスの本格的な学史的研究を告知するもの」と評された『経済学と歴史認識』(岩波書店、1971年)で著名だが、先生を専門分野やアカデミズムをこえて一躍有名にしたのが、1969年に刊行された『市民社会と社会正義』(岩波書店)であった。これは、失われた範疇である「市民社会」「所有」「交通」を掘り起こすことによって、マルクス主義およびソ連型社会主義の「抑圧的性格」を根底的に批判したアカデミックな研究である。このようなアカデミズムとラディカリズムの融合が、先生の研究の魅力のひとつである。この本は、日本の既成左翼や生活クラブのような新しい社会運動、「1968年世代の若者」に大きな思想的インパクトをあたえ、「平田理論」をめぐる討論や論争が雑誌や集会や研究会で活発におこなわれた。先生の「市民社会なき社会正義」にたいする批判の正しさは、1989年以降のソ連や東欧における社会主義崩壊によって歴史的に証明されたと言えるだろう。『市民社会と社会正義』から25年、批判的思考が弱体化しているように見える今でも、「もっとも学問的であることが現状にたいするもっともラディカルな批判になりうる」という先生のメッセージは生きている。
「交通」ということで思い出されるのは、平田先生の筆まめなことである。名古屋大学在職のときの先生は公務員住宅に単身赴任されていたが、この宿舎には電話という近代的交通手段がなかった。先生と連絡をとるには、学生も出版関係の人も、郵便によるか訪問するかしか連絡手段がなかった。先生はつねに、依頼や用件、お礼や送られてきた論文の感想などを手紙や葉書で伝えられた。友人、知人、ゼミナールの卒業生の手元には、相当な分量の手紙類が残っているのではないだろうか。先生にとって、人とのつながりを形成したり、失われたつながりを回復する交通形態が「手紙」であったように思われる。また、先生は散歩がお好きで、ひさしぶりにお会いすると、必ず散歩に誘われた。先生は散歩されながら、社会運動や学会の状況、現在の研究関心や家族のことなどを話題にされ、散歩が終わるころには先生と弟子との関係が改めて形成されているように感じられた。先生にとって「散歩」は、ゼミ生との直接的で人格的な交通形態であったように思われる。
平田先生は一言でいえば、「破壊的な観察」の人だった。破壊的な観察というのは、わたしが先生の亡くなる直前に読んでいた大江健三郎の『あいまいな日本の私』(岩波新書)に出てくる用語で、「目の前にある現実をそのまま書くのではなく、見えているものの奥にあるものを書く。私たちに見えているものをうち壊して、そうじゃないものを引き出す」という意味である。先生は生涯に600近い著書、論文、対談、評論、翻訳を発表されたが、そのすべてがこの破壊的な観察からなっている。先生は言葉に鋭敏で、言葉や概念のもっている潜勢力を引き出すことに度々成功された。「市民社会」という概念はその代表である。晩年のマルクスのロシア論(「ザスーリチ宛の手紙」とその草稿)のなかに『資本論』がロシア(非ヨーロッパ)には妥当しないという衝撃的な見方を読み取ったのも、復刊されたばかりのフランス語版『資本論』で「個体的所有の再建」というテーゼを発見したのも、破壊的な観察である。先生の仕事は、最後の著書となった『市民社会とレギュラシオン』(岩波書店、1993年)に至るまで、古典と社会的現実の往復を繰り返しながら、破壊的に観察し破壊的に表現することだったのではないかと思われる。
このような破壊的な観察はどこから生まれたのか。こういった謎は、先生が残された膨大で多様な仕事の全体像を描くことによって初めて明らかになるだろう。しかし、いくつか思うことがある。先生は大変「眼」のいい人だった。近視とか老眼という次元をこえて、先生は暗い所でも自分の知っている人を識別することができた。私などがボーッと歩いていると、先生の方から先に声をかけられることがよくあった。対象を捉える概念装置が眼に付属しているようだった。また先生は図面を書くのが得意で、直接には見えない角度から経済対象の図面を書くことができた。このようなことは、先生の破壊的な観察と無関係ではないはずである。
市場や政府によっては解決困難な問題が増えている。地球環境や貧困・社会的排除の問題がそうである。このようなエコロジー危機や社会的危機は、国際市民社会の発展によってのみ打破できる。市民社会にたいする関心が世界的に高まりつつあるなかで、市民社会論の提唱者である平田先生は永遠の眠りにつかれた。おそらく、先生の生涯的テーマであった国家論を展開されつつ・・・・
(『月刊フォーラム』1995.6)
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タイトロープの思い出 |
『いばらず かざらず きどらず ――木村雄二郎追悼集』1994.7.1 |
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タイトロープの思い出
大学においても世代間ギャップは毎年大きくなっていて、自分よりも若い世代の教員から信頼と尊敬を得ることはかなり難しくなりつつあるように思われる。このような最近の一般的傾向からみれば、木村先生はその例外であって、亡くなる直前まで若い世代に慕われ、共感と尊敬を集めておられた。わたしもいつとはなしに木村先生に尊敬の念を抱くようになった。いくつかの思い出を記して先生への感謝の気持ちを表すことにしたい。
わたしは「読んだり考えたり書いたり」して過ごす時間がいちばん好きなので、会議や「雑用」の多い役職はできるだけ避けることにしている。ところが、たまに役職を仕方なく引き受けると、10年に一度起きるような「事件」に巻き込まれることがある。そんなことが15年前にも起きた。助教授になった最初の年、わたしは学生主任を引き受けたが、このときにいわゆる「A問題」が発生した。A問題自体の説明をここではしないが、わたしの役目は英書クラスの学生に「新しい担当者がご病気のA教授と交代すること」を了解してもらうことだった。「学生に了解してもらう」というのは変な言い方だが、当時の状況のなかではクラスの学生に事情を説明し了解を得ることはどうしても必要な手続きだった。この「新しい担当者」が木村先生だった。わたしは木村先生を「先導」して、というよりか木村先生に「付き添われて」殺気と怒号がいっぱいの英書クラスに何度も事情説明に赴いた。木村先生はそのとき「学生主任の仕事はタイトロープ(tight-rope
綱渡りのような危険な仕事をする人。ずっと以前に、タイトロープというテレビ映画がありました)みたいに孤独だな」とおっしゃったが、わたしとしては「沈着冷静で何が起きても対応できるユーさん」がいっしょにいるということでどれだけ励まされたことだろうか。このような状況のなかでわたしは必要に迫られて手当たり次第に民族問題や人権問題の本や論文を読んだが、そのときの読書や議論は後になってわたしが従属理論や世界システム論について書くようになる基礎になった。これは学生主任時代の思わざる副産物だが、わたしのなかでは木村先生とご一緒したあの緊迫した雰囲気と結びついている。
人権問題委員長になったのも、木村先生と結びついている。経済学部選出の先任者であり人権問題副委員長をつとめられた木村先生に「大丈夫ですね。間違っても要職には当たりませんね!」とお尋ねすると、先生は「大丈夫だ、安心して引き受けなさい」と返事された。ところが、「委員長は教授から選出する」というルールがあるのに、各学部から選出された委員のうちで運の悪いことに教授職はわたし一人だった。選挙の結果、わたしは人権問題委員長に選ばれ、「なにが安心か」と木村先生をやや恨みつつ2年間もこの役職をこなすことになった。しかし、このとき委員会のメンバーがとてもすばらしく、楽しみながら仕事をし、人権問題に関する新しい冊子『ひとの権利』などを創刊することもできた。この当時のわたしを木村先生がどのように見守っていてくださったか今となってはお聞きすることはできないが、困難が生じればいつでも「一肌脱ぐ」お気持ちがおありだったように思われる。
このように木村先生は自分より若い世代からの勝手な「つきあい」に寛大であって、いつでも若い世代のために時間とエネルギーをさく覚悟をもった人物だった。それゆえ木村先生はもしかすると同世代からの理解には恵まれなかったかもしれないが、自分より若い世代からの信頼を他の誰よりも博した。木村先生はわれわれ教師にとっていわば「お医者しゃん」のような存在だった。木村先生のような「存在」はもはや経済学部には生まれないのではないか、と痛感される昨今である。
(『いばらず かざらず きどらず ――木村雄二郎追悼集』1994.7.1)
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あ・うん考――ガイア説と人権―― |
『室報』関西大学人権問題研究室、1994.6.30 |
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あ・うん考 ――ガイア説と人権――
「あうんの呼吸」という言葉がある。この言葉の意味はほとんどの人が知っている。広辞苑によれば、「共に一つのことをする時などの相互の微妙な調子や気持ち」を表現する言葉である。わたしもここまでは知っていた。しかし、「阿吽」は「あ・うん」と読むこと、そして「万物の初めと終わり」や「出す息と吸う息」を意味することを知ったのは、ごく最近のことである。詳しくいえば、ウォーラーステインの話題作『脱=社会科学』(藤原書店)をめぐる座談会に報告者として参加したこの5月上旬に、同席していた京都にある阿吽社の編集者に質問し教えてもらったのである。わたしの直感的な理解では、阿吽という言葉は、自然との物質代謝を通して生きる一つの生命体としての人間と、生命を生み出し生命を維持している巨大な「生命共同体」としての生態系(エコロジー)との一体性を強調している表現である。
東洋の阿吽という考え方は、近年ラヴロックによって提唱されたガイア説(ガイアは地球のギリシャ名)とよく似ている。ガイア説によれば、地球は生命を維持し育てるために作られている一個の生命システムとして働き、環境の変化に直面してもその安定性を維持しうる自己調整能力をもっている。したがって、人間の高度な経済活動が作り出す地球環境の大変化(地球温暖化やオゾン層破壊、それにともなう水没や水不足や皮膚ガン)によって苦しむのは他ならぬ人間自身であってガイアではないことになる。ガイア説は、「地球にやさしい」といった表現を興ざめなものにしてしまい、類としての人間は将来世代が地球環境を利用する機会を奪われないためにこそ、エコロジカルに持続可能な生活を選択しなければならない、と示唆している。
しかし、このガイア説は、フランスの新しい経済学(レギュラシオン理論)の旗手であり『緑の党』の経済顧問でもあるリピエッツの近著『緑の希望』(La
Découverte, 1993)の中で批判されている。リピエッツによれば、生命共同体という「全体」を強調するこのガイア説は、「各人の行動が全体の運命に影響することをよく知っている創造者としての人間の責任という道徳的要請から後退する危険」生を性をともなっている。それは「個別的」な人間の権利や責任や選択という契機を無視する悪しき「東洋主義」に陥っているのである。リピエッツはガイア説に、「他者に対する有責性」という道徳律を掲げるレヴィナスや「将来世代に対する責任」を強調するヨナスの倫理学に対置する。最近翻訳されたエコフェミニズムに関する書物、『世界を織りなおす』(奥田・近藤訳、学芸書林)の中でも、キールやジンマーチンは、ガイア説(およびいかなる人間中心主義をも拒絶するディープエコロジー)が「個々の存在の独自性や重要性を消す全体論」に陥る側面を避難している。
神社の境内に並ぶ二つの狛犬。口を大きく開けている方は「あ」を、口を閉じている方は「うん」を表している。この一対の狛犬は西欧の環境保護思想の到達点の一つであるガイア説の東洋的象徴であるように思われる。しかし、このガイア説には「個別的」な人間の権利や責任を無視ないし回避する危険がある。21世紀における最大の思想的課題の一つは、地球環境問題のうちに端的に見られるような、東洋的思考と西洋的思考とを融合することではないだろうか。わたしの「あ・うん考」は始まったばかりである。
(『室報』関西大学人権問題研究室、1994.6.30)
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考えるな、見よ |
『書評』No.99、1992.4.3 |
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考えるな、見よ
新入生のみなさん、入学おめでとう。わたしが大学に入学したのは20年以上前ですが、ある教師がわたしたち1回生に「君たちは21世紀に生きる世代だ。レーニンとケインズを超えよ」という言葉を贈ってくれました。近年の社会主義の解体やアメリカ資本主義の衰退を見ながら、わたしはこのキザな教師のことをよく思い出します。
わたしは21世紀に前半に人生の「働き盛り」をむかえるみなさんに、「考えるな、見よ」という言葉を贈ります。というのは、価値観や制度や生活様式のすべてが変容しつつある今日、「見る」という行為を意識的にやることが必要だ、と痛感するからです。本を読む時、その本が自分の存在をゆさぶるような貴重なメッセージを含んでいるのに、私たちはしばしばそのようなメッセージを見逃してしまいます。なぜでしょうか。読書の間、私たちが眼の働きよりも頭の働きを重視しているからではないでしょうか。頭は古い考え方(パラダイム)に従って働いているので、わたしたちは、新しい動きをつかまえる眼の能力を無意識に抑圧してしまっているのです。「眼からうろこが落ちる」なんて言いますが、古い考え方は意識的に落とすべきうろこです。現在は「自分で見る」能力が曇らされている時代ですので、見るということさえしっかりやっていれば、頭の方も自然に考えるという働きをちゃんとやってくると思います。ビデオ世代のみなさんには、ビデオが「わたしは見る」という能動的な原意をもっているのを知っておいてほしいと思います。
世紀末の現在、20世紀のシステムの基礎にあった考え方がゆらいでいます。このゆらぎをビデオしてください。例えば、みなさんは、永遠に存続すると思われた国家が解体するのを目撃しています。ソ連邦は解体しましたし、ユーゴスラビアは解体の危機にあります。他方では、EC統合のように、新しい国家が誕生しつつあります。ドイツ、フランス、イギリスなどのEC諸国は、ヨーロッパ議会、共通の通貨と中央銀行、共通の統合市場と社会保障制度、共通の軍事・外交政策をもつヨーロッパ共同体の建設をめざしています。もしこのような新しい国家ができれば、20世紀における戦争と抑圧の大きな要因であったナショナリズム、国民国家、民族といった要素が消極的なものになり、人びとは自分の「存在証明」(アイデンティティ)を、国家との関係ではなく、「地域」や「地球環境」との関連のなかで追求するようになると期待されます。既成の考え方にとらわれずに見るということは、新しい自己の発見につながると思います。
わたしが最近おもしろいと思った本は、「わたしは見る」という観点から書かれた本です。例えば、勝俣誠氏の『現代アフリカ入門』(岩波新書)は、「できる限りアフリカ人の声、主張、願望に耳を傾け」ながら、この大陸に適用された市場万能主義も社会主義も南北格差の縮小に役立たなかったことを分かりやすく説明しています。また、リピエッツ『勇気ある選択』やボワイエ『レギュラシオン理論』(ともに藤原書店)は、資本主義には予想以上に多様な発展がありうること、しかもどのタイプの発展を選ぶかは市民の勇気にかかっていることを明らかにしています。さらに鶴見俊輔氏の『アメノウズメ伝』(平凡社)は、「笑いをさそい、相手の緊張を解く」アメノウズメという日本神話の人物
―氏はアメノウズメらしい特徴として、「まず、美人でないということ。しかし、魅力がある」ことを含め、7つ列挙している―
を、現代の女流作家、瀬戸内晴美や田辺聖子などの作品に読みこむことによって、「日本と外国、天と地のはざまに立って、権力のめざす思想の固定をゆすぶる、ひとつの姿」(24ページ)を描いていますが、異質な他者との出会いに際し「対等生を求めて排他的ではない」アメノウズメ的態度は、わたしたちにいちばん欠けているものだと思います。現代の日本社会でいちばん欠けている態度を『古事記』や『日本書紀』の中に、あるいは、現代作家の中に発見した鶴見俊輔氏の眼は、「わたしを見る」という意志的な眼だと思います。
わたしはみなさんが「見る」という意志的な行為を、本の世界を超えて、講義や研究会、外国旅行や国際交流にまで拡大してくれることを期待しています。
(『書評』No.99、1992.4.3)
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地球を救うことは人間を救うこと |
関西大学人権問題委員会編『「人」の権利』第1号、1992.3.25 |
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地球を救うことは人間を救うこと
エコロジー・ブームは本物か
バック・トゥ・ザ・ネイチャーが日本でも流行になっている。「地球にやさしい暮らし」とか、「地球にやさしい企業」といったキャッチフレーズが飛び交っている。例えば、百貨店の広告のコンセプトなどはエコロジー一色だし、環境問題への企業姿勢を会社選びの基準にする大学生が増えているらしい。大学生の二人に一人はそうだという話だ。大企業の総本山である経済団体連合会も1991年4月に地球環境憲章を発表し、企業に効率第一主義からの転換を呼びかけている。
しかし、近頃のこのようなエコロジー・ブームは本物だろうか。このブームの火付け役は企業で、企業は「地球を救う」とか「将来の世代の権利を奪わない形の消費」というエコロジーのコンセプトを取り込むことで、売れ行きが鈍ってきた自動車や電化製品の市場拡大をねらっているだけではないだろうか。というのは、「地球にやさしい」ことではトップレベルにあるのに、過労死につながるほどの長労働時間の会社がしばしばあるからだ。本当に地球にやさしいのであれば、人間にもやさしいはずではないだろうか。
とはいえ、21世紀を目前にして、エコロジーというコンセプトが「効率優先・企業本位」の日本社会に取り込まれたことは重要であって、このコンセプトはトロイの木馬の役割を果たすことになるかもしれない。
環境危機に対する国際的な取組み
人類が環境危機について最初に本格的に討論したのは、「かけがえのない地球」をテーマに、1972年にストックホルムで開催された国連人間環境会議においてであった。しかし、ストックホルム会議から現在までの約20年間に、環境破壊はますます進み、地球温暖化やオゾン層破壊、酸性雨や熱帯雨林破壊に見られるような地球的規模での環境汚染が深刻な問題になってきた。なぜ深刻かといえば、現在の世代が将来の世代の分まで環境を使ってしまいつつあるからであり、土壌流失や水不足や重金属汚染などの環境劣化が食料生産の減少と経済活動停滞の原因になり始めているからである。さらに注目すべきは、人口急増や外貨獲得のために、過剰伐採や過剰耕作や過剰放牧によって自然を酷使しなければ生きていけないような発展途上国が数多く存在することである。
約50億の人類は、自然に対する未払いの負債が異常気象や洪水や放射能汚染などによって精算されるのをただ待っているのか、それとも、人間が「自然の一部」であることを認識して、未来の世代や地球生態系に対して責任ある態度をとるか、このどちらを選択するかの歴史的分岐点に立っている。というのは、「私たちが今世紀末までに環境悪化の基本的趨勢を逆転させなければ、もはや逆転は永久に不可能になる」(レスター・ブラウン)かもしれないからである。ノルウェーのブルントラント首相を委員長とする「開発と環境に関する世界委員会」(WCED)は1987年に「持続可能な開発」という画期的なコンセプトを提起し、後者の道を選択した。このコンセプトは経済成長と環境保全とを二者択一的に考える従来の見方を決定的に超えるものであり、子供たちや将来の世代の環境に対する権利を犠牲にしないような「持続可能な社会」への道を示している。1992年の6月にブラジルのリオデジャネイロで開催される地球サミット(国連環境開発会議)は「持続可能な開発」の実行プログラムを決める注目すべき会議である。
「持続可能な開発」と共生
「持続可能な開発」(Sustainable Development)という言葉はやや平凡な用語のように思えるかもしれないが、この言葉に秘められたコンセプトの重要性に多くの人びとが気づくならば、21世紀の人類は20世紀とはまったく異なる生き方を発見することになるだろう。
このコンセプトを初めて提起したWCEDの最終報告書によれば、「持続可能な開発」とは「将来の世代のニーズを充足しつつ、現在の世代のニーズを満足させるような開発」を意味している。ところが、現在の開発はその逆であって、約50億の現在の世代は、来世紀末にはもっとも控え目な予測によっても75億になるといわれる将来世代のニーズを不可能にするようなやり方で、大気、水、土、森林、化石燃料(石油、石炭)、都市空間などを酷使している。しかも、北の豊かさ(例えば、「飽食」や使い捨て)が南の貧困を生むという格差構造が存在するために、発展途上国の現在の世代のなかにも、「人間としての条件に関するどのような妥当な定義に照らしてもはるかにほど遠い栄養不良、文盲、疾病、高い幼児死亡率、短い平均寿命の水準から脱却できない状態」(マクナマラ前世界銀行総裁)にある絶対的貧困層が約12億も存在しているのである。
それゆえ、持続可能性という発想は、現在とは逆転して物事を考えることである。つまりそれは、これまで無視されてきた、未来の世代や絶対的貧困層や自然の視点から環境問題を考えることであり、「自然の一部」である人間と自然とが、現代の世代と将来の世代とが、先進国の人々と途上国の人びととが共生できるような「持続可能な世界社会」を作っていくことである。したがって、持続可能性という環境問題のコンセプトは「共生」という人権問題のコンセプトを含んでいるのである。
人権問題としての環境問題
「持続可能な開発」が単なるユートピアではなく現実のもになるためには、「すべての人は、その健康と福祉のため十分な環境を享受する権利を有する」(WCEDの定義)という環境に対する基本的権利が国際的に承認されねばならない。いうまでもなく、この「すべての人」の中には、将来の世代と発展途上国人口の約3分の1に及ぶ絶対的貧困層とが含まれている。しかし、「すべての人」をそのように理解することが「持続可能な社会」への第一歩であるとしても、それは決して容易なことではない。まず、将来の世代の環境権を認めることは「生きた人間でなければ権利はない」という現行の通念と対立するものであり、承認されるまでには大きな困難が予想される。だが、権利が歴史的には困難を乗り越えながら「女性、子供、外国人、マイノリティ、胎児、等々」にまで拡大されてきたように、自然や未来の世代との共生という環境倫理が次第に確立してゆくなかで、将来の世代の基本的権利は承認されると思われる。
さて環境破壊にとってより重要なのは、環境を享受する基本的権利を奪われている絶対的貧困層の問題である。というのは、途上国では土地と仕事の不足による貧困が熱帯雨林破壊などの環境破壊の最大の原因になっているからである。言い換えれば、貧困との闘いと環境破壊との闘いは、区別できない一つの闘いなのである。しかし、このような闘いに北の人びとが参加するためには、北の過剰消費が南の環境破壊と貧困を生み出すという構造を認識しなければならない。例えば、世界一のエビ消費国の日本はその90%を輸入に頼っているが、私たちのこのような生活様式はアジア各国の環境破壊(伐採による洪水、養殖池用の地下水汲み上げによる地盤沈下)の上に成り立っているのである。
「地球を救う」ことは「人間を救う」ことだ。それは、私たちが「持続可能な生活様式」を工夫できるかどうかにかかっている。
(関西大学人権問題委員会編『「人」の権利』第1号、1992.3.25)
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最近の学生生活に思う
――何か新しいものが生まれつつあるが・・・―― |
『葦』No.77、1987.8 |
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最近の学生生活に思う
――何か新しいものが生まれつつあるが・・・――
1. 関大生と国際化
ただいま学部長が話されましたように、関西大学の経済学部生にたいする期待は、高校の側から見ても、卒業生を迎える社会の側から見ても高まっています。また、新しいゼミ棟ができて、これが学生諸君の4年間の勉学の中心として機能し始めました。このように大学の内外において、経済学部の学生がいっそう成長する条件ができてきています。
しかし、「もう一皮むける」という点から見ると、学生諸君はまだまだ、自分たちに有利な新しい条件を認識し、これを十分に使っていないと考えられます。
関大の中で「何か新しいものが生まれつつある」と言う場合、学生諸君の一人ひとりに国際化の波が押し寄せていることがあげられます。いくつかの具体例を指摘します。
一つは、今年から関西大学がハワイ大学の協力を得て「ハワイ夏期英語セミナー」を開催することになり、定員40名を募集いたしましたところ、全学で91名が申し込みました。初めての試みでしたが、学生諸君の反応が大きかったことにうれしく思いました。
二つめは、今年の後期から始まる「時事英語Ⅱ」は、今回特別にJ.
M.
サマーズ先生が担当されることになりましたが、これは自由選択科目にもかかわらず、82人の履修者がありました。履修者がゼロになるかもしれない(?)と心配していただけに、予想を超える履修者の数に驚いた次第です。
三つめは、外国から経済学部に留学する学生が近年増加していることです。現在、東南アジア諸国からの学生を中心に、24名の留学生が経済学部に学んでいます。学生諸君は、おそらく、カタコトの日本語でいっしょうけんめいに自分の意見を発表している光景に日々接していることでしょう。
このように、経済学部生は、留学する機会も増え、また、千里山のキャンパスで留学生と接したり、ネイティヴの英語を直接に学ぶ機会をもつようになってきました。こういった傾向は、長い目で見ると、非常に大きな影響を経済学部にあたえるに違いない、と思います。しかし、現在のところ、2,000名を超える経済学部生の大部分はこの新動向とは無縁であって、ごく一部の学生だけの関心事に終わっています。先ほど「一皮むける」ためにはどうしたらいいか、と言いましたが、例えばこのような国際化の波を受けとめることが、その一つだと思うのです。
2. 流れを止めるもの
――アルバイトと甘え――
大部分の学生諸君は、新しい流れに無縁であるような暮らしをしています。なぜでしょうか。彼らは何をやっているのでしょうか。
一つはアルバイト問題です。学生諸君は「忙しい、忙しい」と言っています。新入生に「大学で何がしたいか」と質問したところ「アルバイトがしたい」という返事が返ってきた、という笑えない話があります。90%を超える学生がアルバイトをしていますが、その理由の60%は娯楽や交際費を稼ぐためというアンケート調査があります。学生諸君はブランドものを身につけ、テニスをしたり、ライブハウスに通ったりするのに、かなり小遣いがいるようです。どうも、私の小遣いよりも多いようです。私のゼミ生の例ですが、喫茶店でアルバイトをしている学生がいます。しっかりした学生ですので、ゼミナールの幹事になってくれるように頼んだところ、「自分はまかされているので忙しい」と言います。彼は毎日、午前7時から10時まで喫茶店で働いた後すぐに、10時40分から始まる第2限の講義に駆けつけ、さらにまた、午後6時から9時まで喫茶店で仕事をします。喫茶店での仕事の間をぬって大学の講義を受けているわけです。これも、彼が「まかされている」からです。別のゼミ生も塾をまかされていて、毎日午後6時から9時まで仕事をしています。塾が忙しくなる1月、2月は、大学生も期末試験でもっとも多忙な時期です。彼が無事単位が取れるかどうか心配です。意欲も能力もある学生がこのような日常を繰り返していて、大学の新しい動向を知らないままに卒業してしまうのは、残念です。
二つめは卒業問題です。毎年すんなり卒業できるものは全体の60%ほどです。留年する学生は15%もいます。今の4回生で言いますと、864名のうち、すでに100人ほどの学生は残留が決定しています。単位の取得が少ない者や、経済原論、基礎経済学などの指定科目を落としている者などの成績不良者は、200名以上を超え、その比率は26%に達しています。これにはいろいろな原因がある、と考えられます。先にお話ししたアルバイトも一因でしょう。教師も今の学生の感性にあった講義を工夫しなければならないでしょう。しかし、学生諸君の講義出席率がきわめて低いことが、最大の直接的原因になっていると思われます。学生諸君が講義を通じて、新しく生まれつつある何ものかを感じてくれるように、私どもも努力したいと思います。
三つめは、親の子離れと子の親離れという問題です。学生諸君は、学生生活の中で、困難を自分で解決するような経験を次第にしなくなっているように見うけられます。彼らが問題を自分で解決する前に、あるいは悩んでいる最中に、親があまりにも早く手を貸してしまうことがないでしょうか。こんな話を最近よく聞きます。ゼミナールや語学関係の講義は出席をとるのですが、「子供が病気で出席できません」という断りの電話が親から教師の自宅や事務室にかかってきます。なぜ自分で電話をしてこないのでしょうか。私も人の子の親なので、「かわいい子には旅をさせよ」という格言の実行がいかに難しいかがよく分かるのですが、どうか、大きな子供が苦境から自分の力で立ち直るのを見守ってやってほしいと思います。仮に子供が怠慢なために卒業できないという事態が生じた場合でも、成人式を終えた子供が教師や職員、友人に相談しながらなんとか道を見つけるのを見守ってほしいので
(『葦』No.77、1987.8)
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講義としてのマルクス経済学
――反省と希望―― |
『経済学会報』第8号、1987 |
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講義としてのマルクス経済学
――反省と希望――
いつの時代にも「神話」があって、神話が個人の日常の判断規準となる常識として通用している。聞くところによると、学生諸君のなかでは、経済原論Bを履修すると「いろいろな点で不利になる」という神話が存在しているらしい。少なくとも、これを履修するには相当な勇気ないしあきらめ?が必要のようだ。何時からこういう事態になったのであろうか。AとBのどちらを選択必須し、Ⅰを取らなければⅡが履修できない、という現行のカリキュラムが実施される前の、今から7、8年前には、AとBとの履修者の比率は3対1ぐらいではなかったろうか。それにしても、なぜこのように変化したのだろうか、と反省しつつ展望を模索している昨今である。
私の学生時代(1960年代の後半)には、現在とは反対の神話が支配していた。当時の多くの学生には、マルクス経済学は「社会の本質と歴史の必然性」を説き明かしてくれるように思われた。この経済学は、真理の追究とか歴史の進歩というイメージをもっていて、大変魅力的に感じられた。このような雰囲気のなかでは、近代経済学だけを学ぶ者はやや変わり者と思われたり、友人の間では議論の仲間に入れないこともあって、肩身の狭い思いをしていた。大学院に進学する場合も、「真理を研究するのは、マルクス経済学だけだ」という「常識」がまだ残っていたので、近代経済学を専攻する者は(大学によっても違うとはいえ)少数派であったように記憶する。しかし、このような時代風潮のなかで近代経済学の研究を始めた人の中から、伝統や権威にとらわれず、経済学の新しい分野を開拓した研究者や新古典派的な近代経済学を内在的に批判する近代経済学者が現れた。つまり、近代経済学の専攻者は、「研究や講義における近代経済学の意味」という問いに常に答えねばならず、それだけにかなりな精通と工夫が試みられたと思われる。
これに反して、1950年代から1970年代初頭までの間、マルクス経済学の専攻者は研究や教育において比較的順調であって、「講義としてのマルクス経済学」の内容や意義づけについて思い悩むことは稀であった。学生諸君のなかに『資本論』を研究する会がいくつもあって、四六時中、大学のどこかで資本主義社会の本質やその歴史的位置について議論されていた。教師はあまり努力しなくて、研究、教育(講義)、学生の自主学習の3つはうまく結びついていた。私が講義を始めた1970年代の中ごろになると、この3つはもはや以前ほど好都合に結びついてはいなかったが、まだ講義の履修者も比較的多く(200~300人)、まだゼミナールで『資本論』を読みたいという学生もかなりいて、経済学の議論が社会認識や歴史認識と結びついているというマルクス経済学の長所が理解されていた。
ところが、1970年代の後半から1980年代の初頭になると、現行カリキュラムの実施とほぼ時を同じくして、原論Bの履修者は減退傾向をたどった。その原因の中には、若者の活字離れという時代傾向があるかもしれない。あるいは、1970年代から1980年代への移行が新しい個性=自我を作りだし、ただ一つの理論や思想を選びそれに偏執することによって個性を確立する柔らかな自我に変わっているにもかかわらず、マルクス経済学が相変わらず堅い自我だけに働きかける理論的枠組みしか持っていないことが、若者や学生の「マルクス離れ」の一因になっているのかもしれない。しかしより根本的な原因は、マルクス経済学が時代の恩恵に安住して、努力を怠ったことにあるように思われる。マルクス経済学を専攻する人びとの方が、自分の研究成果がそのまま講義において学生に伝達可能である、と考えがちであった。その証拠は、マルクス経済学には近代経済学に見られるような標準的なテキスト(例えば、サミュエルソンのテキスト)がないことである。マルクス経済学は、経済学の制度化という点でずいぶん遅れをとっている、と言ってよいだろう。
これ以外にも、マルクス経済学の硬直化の理由として、現代資本主義を分析するうえでの切れ味ないし有効度
―かつては日本経済論といえば、マルクス経済学からアプローチした研究がほとんどであったが、現在では、近代経済学からの日本経済論にも出色のものがある―
や社会学・歴史学・政治学・哲学などの他の学問分野の成果の吸収ないし利用による活性化などの点において、マルクス経済学の近代経済学に対する優位が失われたことを指摘できるであろう。さらに、困難に直面する「現存する社会主義」の歩みが「高度成長」を達成した資本主義に生きる若者にとって社会主義を魅力の少ないものにしたことも、資本主義が人間やその個性の発達を阻止することを批判し、多様な個性の開花と人間の全面的発達を保障する協同社会
―社会主義はこのような理想社会を実現するための過渡期である―
の形成を提唱するマルクス経済学にとって不利な事情であった。
おそらくこのような理由や事情が重なって、マルクス経済学が第二次大戦後の歴史的環境の中で持っていた比較優位や魅力が何時の間にか衰退し、「講義としてのマルクス経済学」は、今日のような極めてきびしい状況に置かれることになったと思われる。マルクス経済学は、戦後のある時期に近代経済学が置かれていたのと同じような状況にあり、「研究や講義におけるマルクス経済学の意味」をたえず問い、また問わねばならない。ある意味では、近代経済学の専攻者は、かつてのマルクス経済学と同様に、時代環境があたえている優位さと理論的な優位さとを混同するような状況におかれている。
「講義としてのマルクス経済学」のありかたを模索し、また工夫しつつある近年であるが、学生諸君の反応をみていると、希望をもつことができる。「先生の講義に感動しました」という学生が本当に何年ぶりかに現れた。ゼミナールの方も、法人資本主義や現在の「長期不況」をテーマにしたが、ゼミナリステンが比較的元気に議論してくれるようになった。以前よりも、「自分は教師である」という自覚がでてきたように感じられる。不十分ではあるが、マルクス経済学の担当者は努力を傾注し始めた。現行のカリキュラムの下で最大限の工夫をしてみるのはもちろんのことだが、そろそろ近代経済学とマルクス経済学の双方を学ぶことができるカリキュラム
―両者の履修単位の割合は必ずしも同じでなくてかまわない―
を考案する時期が来ているのではないだろうか。
(『経済学会報』第8号、1987)
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人はどのようにして自分になるのか
――平田清明『市民社会と社会正義』との出会い―― |
『書評』(関大生協書評編集委員会)第110号、1997.4 |
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人はどのようにして自分になるのか
――平田清明『市民社会と社会正義』との出会い――
わたしは若い人に、とりわけ大学に入ったばかりの新入生に、「人はどのようにして自分になるのか」という問いを考えつづけてほしいと思っている。しかし、この「自分になる」というのはなかなか難しく、、「青年老い易く学成り難し」のことわざが示唆するように、残るのは「あの時にああしておけばよかった」という後悔ばかりで「自分になる」という感動のないままに人生の晩年を迎えることが意外と多いのである。『戦争と平和』の作者が言っているように、後悔は人生を不幸にする。
一般に早熟の人は自分になるのが早いし、晩成型の人は自分になるのが遅い。まだ若い時に、早熟型の人がそばにいると、しかも彼の弁舌がさわやかであったりすると、自分を探しあぐねてうろうろしている晩成型の人はあせって自分のペースを乱してしまうことがある。しかし、各自が人生というマラソンのなかで自分のペースを守るならば、例えば短期的に両親を含む周囲の人の期待を裏切ることを恐れないならば、早熟型の人も晩成型の人も、その人のもっているものを成熟させ実らせることができるのである。
このように、早熟型であれ、どのタイプの人も「自分になる」可能性をもっている。それは早いか遅いかの違いである。ひとまずそのように言うことができる。しかし、「自分になる」という経験は生涯に一回だけのことだろうか。わたしはそうではないと思う。開高健のエッセイに「見る」、「続・見る」があるが、彼はこの中で晩年のゴヤの銅版画集とそれにつづく最晩年の傑作「黒い絵」を見た時の衝撃をつぎのように書いている。「ゴヤは多彩、多作の人だったし、長い生涯だったから、作品はたくさんのこされている。宮廷画家時代の作品のあるものは上手だなと思う。・・・・・けれど私にいわせればただならぬ気配、『オレはゴヤだ、スペインのゴヤだ、そしておれだ!』というつぶやきが洩れはじめ、通過していく足がとどまり、たゆたい、にぶりはじめるのは銅版画からである。異形の者たちの登場からである。そして黒い絵の一群にとりかこまれたとき、かつても今後も語られることのない歴史に形があたえられているのを目撃して、一瞥でひきづりこまれるのをおぼえる」(『白いページ』角川文庫、pp.141-142)。開高健によれば、多数の有名な作品によってすでに何回も自分になっていたはずのゴヤが本当に「自分になる」のは、最晩年であった。世間的に早く認められても、その人がすでにその人になっているとは言えないのである。成功や評判によって自分に自信をもち過ぎ胸をパンパンに張って生きていると、その人の生活の仕方や考え方がいつの間にかワンパターンに陥り、「自分になる」機会を永久に失ってしまう人もいる。成功のゆえの失敗という真理を、失敗のゆえの成功という真理とともに、忘れてはならないだろう。
では、人はどのようにして「自分になる」のだろうか。人はその人だけの道を通って自分になるのである。模倣は通用しない。自分になるための方程式も存在しない。しかし自分になるためのきっかけやチャンスはたくさんある。本との出会いがそのひとつである。そして、本との出会いはたいていの場合、人との出会いをともなっている。
わたしの場合、まだ自分になっていない、これからだという気持ちが残っている。しかし、これまでの短いとはいえない人生のなかで、3回ほど決定的な出会いがあった。1度目は、大学院進学を準備していた22歳のころ、平田清明氏の講演を東京外大の学園祭で聴いたことである。2度目は、関西大学の海外学術研修員としてパリに滞在した1984年から85年にかけて、リピエッツやアグリエッタなどのレギュラシオン学派に出会ったことである。3度目は、つい最近の1997年の1月の上旬に「制度と進化の経済学」で国際的に著名なホジソン教授の講演を聴き、氏の本と論文を読んだことである。以下、わたしが経済学を専攻し経済学の研究者になるきっかけになった平田清明氏の本を紹介することにしたい。
わたしは、平田清明氏のすべての本と論文を繰り返し読むことによって、「ああ、これが経済学なんだ」、「論文を書くということはこういうことなんだ・・・」ということを自分なりに納得すると同時に、平田清明氏の著作を通して氏の著作に影響をあたえそこに流れこんでいる無数の本や学説や知的遺産を理解し、自前の教養をつくっていく核のようなものができた。新入生のみなさんも、これはと思う作家や研究者を見つけたら、その人の本や書いたものを一つではなくすべて読んでいただきたい。知識や学問の継承は、若い人がすべての本を独力で読むことによっておこなわれるのではなく、人生の先輩である著者の著作活動のすべてをまるごと読むことを通じておこなわれるからである。そして、年齢とともに、これはと思う作者、「自分になる」きっかけをあたえてくれる作者は次第に増えていくはずである。そのような作者(知的アンテナ)を複数もっていれば、ある人が独善とワンパターンに陥るリスクがそれだけ少なくなるのである。
平田清明氏は72年間の生涯に600近い著書、論文、対談、評論、翻訳を残されたが、主な著書に、『経済科学の創造』(岩波書店)、『市民社会と社会正義』(岩波書店)、『経済学と歴史認識』(岩波書店)、『社会形成の経験と概念』(岩波書店)、『コンメンタール「資本」』(4分冊、日本評論社)、『新しい歴史形成への模索』(新地書房)、『経済学批判への方法叙説』(岩波書店)、『自由時間へのプレリュード』(世界書院)、『異文化とのインターフェイス』(世界書院)、『市民社会とレギュラシオン』(岩波書店)、『市民社会思想の古典と現代』(有斐閣)などがある。平田清明氏に関心をもった若者なら、これらの本のすべてに目を通すだろう。わたしが学生のころ一時的にそれまで使っていた自分の言葉を失うほど影響を受けた本は1969年に刊行された『市民社会と社会正義』である。この本はソ連や東欧や中国の社会主義システムを「市民社会なき社会主義」として規定し、1989年11月の「ベルリンの壁崩壊」の20年以上前に、現行の社会主義システムの欠陥と行き詰まりを歴史的かつ経済的に解明した画期的な研究である。大学紛争の当時、平田清明氏の影響を受けて考え行動し議論した学部学生や大学院生のなかから、かなりの研究者が生まれた。なかには、学部長や大学の評議委員といった管理職をやっている人もいる。人生のおもしろさやおかしさや不思議さを感じる昨今である。
最後にわたしが強調したいことは、人や本や映画や音楽などとのさまざまな出会いのうちのどれが「自分になる」きっかけにするかはその人の生き方に依存するということである。後から考えて、「あの出会いがなければ今の自分はないかもしれない」というようなきっかけが、新入生のみなさんを待っているのである。
(『書評』(関大生協書評編集委員会)第110号、1997.4)
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発展途上ゼミのOJT風景 |
『葦』No.82、1989.4 |
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発展途上ゼミのOJT風景
ゼミは世につれ
世界の動きや社会の関心の変化とともに、ゼミナールに入ってくる学生諸君の気質や関心もおおきく変わってくる。私がゼミナールを初めてもった1970年代の中頃と80年代末の今日とを比べてみよう。前者の場合は、経済学の古典を読む、ときには原典と対比しながら行間を読む、そして、本を読みながら各自の問題意識を深め、現代にアプローチすることができた。また、コンパをやっても、誰でも知っている流行歌があって、これさえ歌えれば、連帯意識を盛り上げることができた。ところが、しばらく前から、この方法は通用しなくなった。コンパをやってもみんなでいっしょに歌うよりも、ひとりひとりのパフォーマンスが目立ってきた。何年か、教師としてのスランプが続いた。今度は、まず世界経済の具体的な問題を議論して共通の問題意識を準備したうえで、体系的理論書を読破しようとした。このやり方でも、たいした改善にはつながらなかった。
ゼミナール版OJT
どうも理論と本読みにこだわりすぎていたようである。私は今でも、自分のものとなった専門語を、少なくとも3つか、4つは身につけて卒業してほしいと考えている。しかし、これを身につけるには、ゼミナリステンの自主的な参加が不可欠である。ある具体的な目標を協同で達成する実際の作業をとおして、学生諸君は、知識や、原稿用紙の書き方、討論の仕方、資料の探し方などを学ぶのである。企業では、OJT(On
the Job Training=仕事につきながらの訓練)をとおして知識や熟練を身につける方法が理論化されているが、今日、いわばゼミナール版OJTが大学でも必要になってきているようだ。
ゼミナール大会への参加
連帯意識、自主的な参加、本好きといったことは、最初から備わっているのではなく、ゼミナール活動の結果として生まれてくるのだ。1987年度の学内ゼミナール大会にゼミとしては10年ぶりに参加したが、活発な討論が終わった時、「これがゼミですね」とひとりの学生が言うのを聞いて、つくづくこのように感じられた。
ゼミナール大会には、「大恐慌は再来するか」というテーマで参加した。しかし、このテーマでは対抗相手を得られなかった。そこで、ゼミ生をA班とB班に分け、A班は「再来」を肯定する立場から、B班は「再来」を否定する立場から議論させた。夏休みの頃から、両班はそれぞれの立場を説得的に展開できるような資料を集め、なんとか、報告論文を作りあげた。11月中旬の大会当日はブラック・マンデー(10月19日)の助けもあって、予想以上に迫力ある討論ができた。普段おとなしい学生が見事に質問に答えてびっくりしたり、いつものハッタリが通用しない学生もでてきて教師としても楽しかった。
天六における2部のゼミ
5年に1度ぐらい、2部のゼミをもつ。本年度で3回目である。2部のゼミには、いつも個性的な学生が多く、学生から教えられることも少なくない。前回の時は、ある大学の法学部の助教授が正規のゼミ生として入ってきて面喰らったし、1部の工学部建築科に学士入学した学生の度はずれな真面目さに感心したりした。
2部の学生と議論しながら思うのは、大切なことは本を読むこと(知識の量)ではなく、考えることだ、という大学の原点である。2部のゼミにはいつも社会科学者の卵のような学生がいる。
テイク・オフし始めたゼミ
このように、ゼミのパターンみたいなものができかかってきた。私のゼミは、発展途上ゼミである。
(『葦』(関西大学教育後援会)No.82、1989.4)
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フランス留学の思い出 |
『'87 大学』関西大学広報委員会 |
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フランス留学の思い出
私は関西大学の在外研究員として、1984年の8月から85年の9月までフランスに滞在し、とくにパリ第7大学や国立科学研究センターの社会科学者と交流しながら、経済学の研究に従事しました。
留学先をフランスに選んだのは、近・現代史のなかで革新的な役割を演じてきたこの国が、今日もまたミッテラン政権のもとで新しい社会的実験を試みていることに関心をもっていたからです。
1. 「書かれざる一章」
井上光晴の小説に『書かれざる一章』という有名な短篇があります。彼は、人間の幸福を追求する組織が生身の人間の痛切な苦しみが分からぬ官僚組織になっている事態を、文学作品のなかに定着させていますが、どうしてそれに『書かれざる一章』というタイトルをつけたのでしょうか。作者はこのタイトルに、自分以外のものにはなかなか伝えられない経験、しかも無理に伝えようとすれば笑われたり相手にされないような経験を描く緊張感をこめているのだと思います。「フランス留学の思い出」というタイトルで書き始めようとしたとき、なぜかこの井上光晴の短篇が思い出されました。よく友人や知人に「フランス留学の成果は何でしたか」と質問されます。そういうときに「○○教授に会いました」とか、「新しいテーマをみつけました」とか、「ヴェニスの街並が忘れられません」とか答えたりしますが、いろいろな成果=結果のもっと底にある「苦しい経験」はなかなか言いだせません。人生には、とくに20歳前後には、それまでの信条や拠り所にしていたものが崩れ、新しい拠り所を父や先生の手を借りずに自分でつくらなければ自分がだめになってしまうような経験―イギリスの経済学者J.
S.
ミルは、『自叙伝』のなかでこのような経験を「精神の危機」と呼んでいます―を誰しもするものです。私はフランス滞在のあいだに、「学問研究における自立」という、抽象的な言い方しか今のところできない経験をしました。この経験は帰国後の研究や教育を支えるエネルギーの一つになっています。もっとも私のフランス滞在は家族といっしょでしたし、私の半年後に留学された大学院時代の先輩と問題の性格について何度も語り明かすことができましたので、この経験は「精神の危機」というほど大げさなものにはなりませんでした。しかし私のフランス留学は当面のあいだ「書かれざる一章」のままにしておきたいような経験をともなったという意味で、第二か第三の青春であったと言っていいと思います。
2. 「スタンバイ」事件
不慣れな海外生活ですので、最初のうちは失敗が毎日のようにありました。フランスは「手紙社会」と聞いていましたので、受け入れ大学の教授に手紙で用件を伝えると、2、3日後に電話がかかってきて、しかも緊張して聴いているために、面会時間を間違え―フランス語の12時と2時の区別はなかなか聞き取れないのです!―最初の「ランデブー」に失敗したりしました。
いちばんの失敗は、ロンドンからパリに帰る飛行機に乗り遅れてしまったことです。しかし、本当の「事件」は午後2時30分の便に遅れ、次の4時30分の便を待っていたときに起こりました。キャンセルの座席を確保するために行列をつくっていた私たちは、搭乗券を配る係員に呼ばれました。「3つの座席が空いている。誰がスタン・バイ(Stand
by)するか」。2人の子供たちのパスポートが家内のそれと共同になっていたのも一因ですが、すぐに「私がスタン・バイします」と答えました。しかし、そのとき私は、家内と2人の子供が座席に座り、自分は新幹線などと同じように立ったままで同じ飛行機に乗る、とイメージしていました。家族いっしょに飛行機の入口にいくと、搭乗券を見せろと言われました。もちろん、券は3枚しかありません。3枚しかないのは係員の間違いだと思い、あわててカウンターに引き返し、なぜ搭乗券が3枚しかないかと尋ねました。すると「お前がスタン・バイすると言ったではないか」という返事がかえってきました。そのときはじめて、スタン・バイとは「待機する」という意味だ、と言うことがはっきり分かりました。予定の便に遅れ、さらにまた、まるで運命によって切り裂かれるように父親と別れて飛ぶにとになった子供たちは、泣きじゃくっていました。家内と子供が急いで飛行機に飛び込むと同時にドアが閉まりました。私たちはこれを「スタン・バイ」事件と呼んでいます。
人生には思わざる失敗がつきものですが、また思わざる発見(フランス語でトゥルーヴァーユ
trouvaille
といいます)をする事があります。私はフランス滞在のあいだに失敗――中年の失敗は少々格好が悪いのですが――を通していくつかの思わざる発見をしたような気がしています。
(『'87 大学』関西大学広報委員会)
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留学とコミュニケーション ――新日本事情―― |
『葦』No.72、1985.12 |
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留学とコミュニケーション ――新日本事情――
世は国際化時代である。このように呼ばれるのは、商品や資本の国際化にとどまらず、人と人との国際交流が、海外勤務、観光、留学、移民、出稼ぎなどのかたちで近年ますます進展しているからであろう。
私も関西大学の在外研究員として1年2ヶ月ほど、パリで生活する経験をもった。パリ滞在中には、国際化時代を反映してか、たくさんの知人や友人を日本から迎え、ジプシー論―私のまわりにも、7人の被害者がでた―や「イギリス人とフランス人との犬の躾の相違について」などを肴に楽しい時をもつことができた。
しかし、海外での日本人との交際は、外国人との交流の妨げになりはしないか、という意見もある。実際、日本の研究者のなかにはフランス人からの電話には応対するが、日本人からの電話連絡には応じないという人もいるほどである。拝仏主義者は意外におおいのである。あるいは、ある研究者が家族づれで留学したために、恩師から「女房の膝枕で学問ができるか」と叱責された、という話も聞いた。儒教的留学間健在なりと言うべきか。
たしかに、私の場合にも経験したことだが、家族いっしょに一日の緊張と苦労をほぐしながら夕飯をとっている最中に、突然電話がかかってきて、ドギマギしながらフランス語で対応することもしばしばだった。だが、日本人同士のつき合いが深まることによって、外国人との交流が広がることも真実である。私の場合にも、合いの手の入れ方が抜群である友人と手を組んで、フランスの研究者と比較的広く交流することができた。また、家族づれだからこそ、自宅に招待できる(逆に招待される)という特権を生かして、交流を深めることができた。
国際交流といえば、外国人との交流だけをイメージしがちであるが、海を隔てた日本人間の交流や海外に住む日本人同士の交際が、真の意味の国際交流にとって意外に大切であるように思われる。日本の研究者がお互いにけん制するのをやめ、協力するならば、学問や芸術の交流はもっとゆたかになるだろう。これは、ブザンソンやヴィッシーにあるフランス語研修センターで学んでいた学生たち(何人かの関大生)の課題でもあろう。
(『葦』(関西大学教育後援会)No.72、1985.12)
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若者よ、書を携え、大学へ出よう |
『関西大学通信』第134号、1984.2.1 |
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若者よ、書を携え、大学へ出よう
1. 大学生の“大学離れ”
「若者よ、書を捨てよ、町へ出よう」と言った劇作家の真似をして、私も「若者よ、書を携え、大学へ出よう」と呼びかけたくなる昨今である。大学生の“大学離れ”があまりにもひどいからである。
若者は、一人で机に向かって書物を読むだけの生活に不満を感じ、仲間と会話し新しい自己をみつけるために町に出たはずである。かつて大学は、このような意味での「町」のひとつであった。
しかし、いま大学生は、書を捨て講義をエスケープして、どこへ出かけているのであろうか? 講義への出席率はきわめて低い。4月の初講義と試験直前の最終講義を除けば、出席率は20%を割っている。そればかりではない。文化、スポーツ、芸術等の、自主的なクラブ活動に参加する学生諸君は、年々減少する傾向にあるようだ。大部分の学生諸君――これは文科系の学部だけかもしれないが――は、会社、百貨店、スーパーなどのアルバイトに追われて生活しているように見える。いわば、大学生のサラリーマン化とでもいえる状況がうまれつつある。これには、高い授業料や生活費を親からの仕送りだけではまかなえないという、経済的理由が大きく左右しているに違いない。だが“大学離れ”の原因は経済的なものだけではなさそうだ。学生諸君のなかには、車や旅行のためのレジャー費を稼ぐために、週に何日もアルバイトをしているものが見うけられる。大学は、学問研究をする自由な場から、学問以外のことができる自由時間をたっぷり与えてくれる場へと、いつの間に転換してしまったのだろうか。
2. 「大学経験」の不在
大学はおそらく、年齢を異にするさまざまな世代――関西大学でいえば、18歳から70歳まで――の人びとが、同時代人として現在を生きながら未来について構想し、未来について語りながら過去を新たに再発見するという、対話空間である。大学論は対話論を中核とするが、未来論(21世紀論)や世代論と不可分でもある。新入生は、相互の討論や世代間の対話を通じて、受験勉強の時とはまったく異なる経験をし、あたらしい自己に出会うことが期待されている。だから大学とは、学生の一人ひとりが自己の生成を経験する現場でもある。
ところが、大学教育の生命ともいうべき対話機能と生成経験とが年々低下しつつある。この低下傾向は、80年代になってからとくに顕著である。学生諸君のうちのかなりの部分が「受験体験」を喪失せず、「大学経験」を知らないままに卒業の日を迎えてしまうように見えるからである。
例えば、私は次のような大学生像をイメージしながら、「大学経験の不在」を問題にしている。それは、4年間の学業を終え卒業を目前に控えている時になってもなお、「某大学不合格」のみが青春期最大の経験であり、「4年間の大学生活で得たものは何か」という質問に、「それは、アルバイト体験で得た根性と人の和の大切さです」と答えるような大学生像である。追い出しコンパの折に、ゼミナリステンの何人かがこのように答えるのを聞いて、敗北感に似たような気持ちを毎年味わっている教師も意外と多いのではないだろうか。教育的対話の不成立と大学経験の不在が、端的に露呈しているからである。大学生はもはや、大学の外でしか自己生成の経験ができないのであろうか。
3. 対話の再建を目指して
いま大学人の多くは、大学教育が曲がり角に立っていることを自覚し、教育的対話の再建に向かって積極的に発言しはじめている。大学における“教育不在”は、もはや受験戦争のせいにも、大学時代の成績を二の次にして人物重視で採用する会社のせいにもできないところまできてしまったからである。むしろ、高校までの受験勉強と会社の社内教育とが、大学教育の空白を埋めているという見方が、皮肉ではあるが、事態の本質に迫っているほどである(杉原四郎「『教育不在』の大学」、『未来』1983年10月号を参照)。
しかし、対話への努力がなかったわけではない。対話再建に向かって、さまざまな制度が実行されてきた。『関西大学通信』の創刊やゼミ・クラスコンパ、ゼミ旅行などの制度化のように、国立大学では及びもつかないことが、関西大学で実施されてきた。また、近年の経済学部では、1年次生のために基礎経済学という学科を創設し、ほぼ全教員が50名ほどの小クラスを担当するという形で、対話重視の講義を試みている。さらに、教師と学生が1泊2食で寝食を共にする新入生オリエンテーションが、この2年ほど企画されている。しかし、教育不在という大学の危機を克服する努力は、いまひとつ効果をあげていないようである。
大学教師は、新世代の学生からみて、あまりにも「遠い存在」なのであろうか。教師からみて新入生は「遠い宇宙からきた異星人」のような存在なのだろうか。それとも、大学教師がこれまで教師としてよりもより多くの研究者として生きてきた“むくい”を、今受けているのだろうか。少なくとも教師は、よい研究者であることがよい教師でもあるという通念を捨てる時に来たようだ。
4. 対話の場としてのゼミナール
教育的対話の中心はゼミナールである。教師と学生とが2年間にわたって、現代と取り組むことによって未来や過去について語りあうゼミナールこそ、大学教育の中心に位置するものである。それゆえ、1ゼミナール=1ゼミ室の実現は、教育的対話の再建に不可欠である。
何はともあれ、若者よ、書を携え、大学へ出よう。
(『関西大学通信』第134号、1984.2.1)
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1 |
パチンコ |
『関西大学通信』第73号、1977.4.8 |
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パチンコ
レジャーという言葉は、パチンコにそぐわない。その理由は、パチン、カラカラ、チーン、ジャラジャラというリズムに支配されるこの遊技が、純国産の大衆トバクであるということだけではない。
パチンコは、はなやかさを嫌う。数年前、この業界の技術革新(とくに昭和34年の“チューリップ”の発明)の担い手=ヤクモノ師やクギ師の存在がクローズ・アップされ、玉のはいる仕掛けについて、誌上討論や共同研究などが組織され、愛好家はおそらく初めて経験交流の機会をもった。しかし、これは例外であって、本来的に、注目されることを期待せず、直視されれば何か照れくさいものが、パチンコの本性の中にあるようだ。
パチンコは、原則として個人技である。しかも、遊技中に、技術や情報の交換、さらには、世間話程度の会話さえおこなわれることはめずらしい。もちろん見物人もなし。トバクの庶民的な伝統と、電車通勤のつくりだす細切れの余った時間とをいわば原料にして成立したパチンコは、人間の共同的諸関係の、あるいは、組織化され管理されることへの一時的拒否という思想を表現しているように思われる。
だからパチンコは、諸個人の自由なクラブ形成という意欲の欠如の代償として、クラブ制度=会員権の売買(テニスやゴルフ)とか、技能向上=段位授与といった組織かとは無縁であり、何らかの「囲い込み」から自由である。
さらに、パチンコの世界は、直接的な感覚性によって支配される。この世界は、一時的に、思考することから自由であり、いかなる抽象化をも拒否する。
だから、パチンコ愛好家には、読書人=大学生が多いと思われるが、どうであろうか。
(『関西大学通信』第73号、1977.4.8)
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